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小論文ノートを作る44   [小論対策]

『寂しい国から遙かなるワールドサッカーへ』村上 龍/ビクターブックス

(p174) 簡単に自信を持つことなどできるわけがない。経験だけが、自信を支える。

(p125)
 能力を「発揮する」のはむずかしいことなのだ。
 しかし、ワールドカップへの出場を「夢」などというのはもういい加減にやめて欲しい。それが夢なのだという自覚がある間は、そのことは決して実現しない。それは希望であり、欲望でなければならない。実現されるべき希望と欲望は、すでに現実である。

(p163)
 世界の金融市場が日本に求めているものがすべて正しいとはわたしは思っていないが、ディスクロージャー・情報開示は行われるべきだと思う。情報開示は単に真相を明らかにすることではない。責任の所在が問われるものだ。個人の主体性ではなく共同体の曖昧な総意でものごとを進めてきた日本では、これまで責任というのは犠牲を意味していた。共同体の存続のために誰かが腹を切ったのだ。責任の所在を明確にするということはそういうことではない。誰がミスをしたのかが明らかにならなくてはいけない。ミスという概念の中には「無知」も含まれる。

(p174)
 簡単に自信を持つことなどできるわけがない。経験だけが、自信を支える。

(p175)
 大切なのは、通用するかどうかではなく、彼らに海外に行く気があるかどうかだ。日本にいる限り、実態のない国民的なブームとその反動の非難で必要以上に突かれてしまう。また、Jリーグでは「経験」になりようがないことを、このワールドカップ予選リーグで誰よりも彼ら選手自身が身に染みてわかったのではないだろうか。閉鎖的で安楽な日本を出ること、しかも悲壮な決意とともに出るのではなく、状況を楽しみながら外へ出ること、それだけが「日本の限界」の外へ出る唯一の方法だと思う。

(p209)
 ビッグネームに対し、いつものようにプレーするためには、集中しかない。世界最高峰の敵の存在感に負けないためにはゲームとプレーに集中するしかないのだ。

(p210)
 中田は、結果がすべてという世界に来てしまったのだ。「よくがんばった」という情緒的で日本的な賞賛が存在しない世界。

(p211)
 中田はワールドカップのジャマイカ戦で受けた足首の傷が完治していない。痛みは残っているが慣れてしまった、とわたしにはそういうことを言うが、たとえば日本のメディアには決してそういうことを言わない。自分はサッカーのためにこれほど努力しているんだというようなことを彼は絶対に言わない。それは美学などではなく、そのことに何の意味もないからだ。

(p212)
 中田はペルージャで禁欲的で過酷な現実を生きていて、それを奇跡につなげている。その奇跡は、繰り返されることによって、充実した現実に変わっていく。彼はそのために誰よりも努力している。そういう科学的な努力が続けられる限り、中田英寿は21世紀の日本人のひとつのモデルになりうると思う。

小論文ノートを作る43   [小論対策]

『寂しい国から遙かなるワールドサッカーへ』村上 龍/ビクターブックス
十分な準備のない戦いや仕事は、得るものも少ない。

(p36)
 楽しんで生きるというポリシーの中にしか、豊かなイマジネーションは生まれない。
 イマジネーションというのは空想ではなく、現実をリアルに把握し、それを越えようという科学的な努力だからだ。

(p56-57)
 今度のイタリア大会のことを、盛り上がりに欠けた、などという人がいる。
 その人の頭の中はどうなっているのだろうか? そういう人は、きっと世界が自分のためにある、と思っているのだろう、自分で世界を造ろうとはしない人だと思う。

 そういう人はきっと、退屈でつまらない日常を送っているのだろう。
 ワールドカップに、人生観が変わるような衝撃を期待したのだろう。
 盛り上がりに欠けた、などという人は、他者に期待し依存して生きているのである。
 私は神経が切れそうなくらい楽しんだ。

(p108)
 日本人はもともと共同体に対して柔順だから肉親や恋人や友人が見ていなくてもモチベーションを持つことが可能だ。所属の学校や企業のためにモチベーションを高めることができる。だから、相手チームも同じだろうと考えてしまう。

 昔阪神のバースという選手が子どもの手術のためにシーズン中に帰国してしまったことがあった。日本のメディアはそれが理解できなかったが、欧米では家族や恋人といったもっとも親しいもののために仕事をしているわけだから、そういう生死に関わる病気や手術の祭にそばにいようとするのは当たり前のことなのだ。

 日本では親の死に目に会うことなく仕事を優先させた人間のことが美談となることがある。それは単に共同体が個人とその家族の面倒をこれまでよく見てきたからだ。

 そういった風潮は「年功序列・終身雇用を見直せ」という世界市場の要求によって少しずつ崩れてはいるが、もちろんいまだに日本人の精神性として残っている。だから、外国のチームが日本での試合でモチベーションが希薄になることを理解するのが難しい。

(p110)
 十分な準備のない戦いや仕事は、得るものも少ない。敵は強かった、世界の壁は厚かった、だけで終わってしまう。やるだけのことをすべて準備しシミュレーションを果たしたものだけが、その戦いや仕事から貴重な情報を手に入れることができる。もちろん準備やシミュレーションというものは、これで十分だという基準はない。だが、状況や予算が許す限度まで準備しシミュレーションすることは可能だ。

(p115)
 この国で優先されるのは、個人的なアピールによる一生分の歓喜ではなく、共同体によってできれば一生守られて生きていくことだ。世界金融市場という外圧によって、終身雇用・年功序列といった日本を支えてきたシステムが一部崩れ始めているが、それは共同体に守られることのない個人の時代の到来を意味する。旧システムは長い時間をかけて作られたものだから急に全体が変わるとは思えないが、大災害や大恐慌や戦争でも起こらない限り結局は変わらざるを得ないだろう。そして世界金融市場は日本に大恐慌も戦争も許さないだろう。

 新しい個人の時代では能力がすべてに優先するので日本が経験したことのない階級社会を生むはずだ。

小論文ノートを作る42   [小論対策]

『すべての男は消耗品である。Vol.2』村上 龍/KKベストセラーズ
 自信というのは何によって成立しているのだろうか? 一番大切なのは、自分で自分を認め、それが独りよがりになっていないことだと思う。

(p27)
 相手に自分を確認して貰うことを重ねていくうちに、世間で言われる「愛」の感情が成長していく。旅は、その典型的なケースだ。

(p83)
 例えば、リオの貧しい若者達は老後に幻想などを抱いていない。それは彼らが怠惰なのではなく、ブラジルには厳然とした階級差があるからだとオレは考える。いっしょうけんめい働けば生まれは悪くても這い上がれる国ではないのだ。そういう国では、誰も老後のことなど考えない。

(p98-99)
 オレがF1を少年の遊び心だと言ったら、モータースポーツ取材では大先輩の五木寛之さんは、それは違うよ、と言った。
「F1には、ヨーロッパのデカダンスが詰まっている」というわけだ。
「大人の世界なんだよ」という五木さんの言うことも、全面的に正しい。
「少年の純粋さ」と「大人の退廃」は、どこで結びつくのだろうか?

 少年の純粋さ(ああ、恥ずかしい言葉)を保っているのは、どういう人なのだろう。凧揚げが好きで、ずーっと凧揚げをやる人は、純粋なのではなく、ただのバカだ。当たり前のことだが、年を取っていけば、男はそれなりの力を得るものだ。扱える金も大きくなるし、人間関係も広く深くなっていく。夢の質も変わっていかなくてはならない。よりレベルの上の方へ、より面白い方向へ、より刺激的な方へと、変化していかなければ、少年期の充実感をキープすることはできないのである。

 退廃はどこで生まれるのか? 退廃は、どんな場合であれ、過剰の中からしか生まれない。あふれ出るものが、発酵して、退廃となるわけだ。

(p125)
 自信というのは何によって成立しているのだろうか?
 一番大切なのは、自分で自分を認め、それが独りよがりになっていないことだと思う。

(p219)
 そして、ここが重要な点だが、今、『ラッフルズホテル』のスタッフ全員が集まっても、あれほどの盛り上がりはあり得ない。そこが映画の魅力なのである。現場、そして、現在しかないところ……

(p221)
 屈辱を受けても、さらし者になっても、映画のためならしようがない。そのかわりオレに屈辱を与えた奴にはきっちり復讐してやる。別にヒットマンを雇うわけではない。そいつらがグーの音も出ないような映画を作るということだ。おっと、かなり熱くなってしまった。

(p229)
 反省はするが、反省の内容はオープンにはしない。オープンにされた反省は、すでに敗北だからである。

(p233)
 だが、少なくともオレは苛立っていて、下らないことにはなるだけ関わらず、できれば世界の揺れと、同程度のポテンシャルの高さと、テンションを保っていれば、といつも思っている。

(p234)
 不動産と株が第一の価値と言うことは、老後に備えると言うことだ。「今」を放棄しているのだ。それは神をも恐れぬ大間違いだと思う。みんなそんなので恐くならないのだろうか?

 松田優作が、あの若さで、死んでしまった。その才能のある役者の死を知った時、オレは、生きなければいけないと思ったし、それも「今」を生きなければいけないと思った。
 それが生き残った者の義務だ。

小論文ノートを作る41   [小論対策]

『置き去りにされる人びと(全ての男は消耗品である。vol. 7)』村上 龍/KKベストセラーズ

(P213-214)
 4月末の朝日新聞の社説の見出しに、「金融機能の回復を急げ」というのがあった。命令文だが、社説の全文を読んでも、いったい誰に向かって命令・指示しているのか不明だった。金融機能の回復を急がなければいけない「主体は」いったい誰なのだろうか。おそらく朝日新聞も無自覚に命令文にしたのだと思う。それは、旧来の文脈で機能してきた命令文の使い方なのだ。

「企業統治はゴーンに学べ」
「このモバイルギアでライバルに差をつけろ」
「電子メールの日本語力をアップせよ」
 男性誌やビジネス誌には、そういった命令文の見出しが多い。

 命令・指示されているのは不特定多数の読者だが、「不特定」だから自分のことは考えずに済むという巧妙な仕掛けがある。そういった命令・指示は、社会の変化から置き去りにされようとしている人にしか届かないし、電子メールの日本語力をアップしなければいけないのは自分だけではない、という安心感が前提となっている。だから記事全体に切迫感がない。

 あるモバイルギアを持つだけで社内のライバルに差をつけることができるわけがないから、本当に優秀な人はそんな記事は最初から真剣に読まない。そして優秀ではない人は、みんな考えていることや状況は同じなんだと、ただ安心するためにその記事を読む。記事と読者の間で、重要な情報の受け渡しは何もない。


(P215-217)
 対立を露呈する文脈がないと、利害の対立を前提とした議論ができない。高度成長の頃と違って再配分される資源は限られている。つまり使える補助金や地方交付税還付金は充分ではない。足りないのだ。たとえば地方に高速道路を造れば都市機能の充実は後回しになる。それはすでにみんなが知っていることだが、文脈がないので議論ができない。つまり都市部と地方の利害の対立を示すための主語がない。「国民のみなさん」という言い方以外に、利害の当事者を表す言葉がない。

 だからいつまで経っても、議論は終わらず結局どっちを選ぶのかという選択もできないまま時間が過ぎていく。銀行の不良債権問題も同じだ。各大手行の業績や不良債権処理能力は横並びに同じではないが、それらを仕分けする言葉がない。まさか優良行と不良行とするわけにもいかない。

 教育問題でも同じだ。ゆとり教育の是非ばかりが問われているが、問題は、ゆとり教育などまったく関係ないという一部の優秀な子どもと、違う意味でゆとり教育とは無関係な底辺層の子どもと、中間層の子どもに分かれてしまっていることだ。唯一の解決策は、優秀な子ども、底辺層、中間層に分け、それぞれの能力にあわせてカリキュラムを組むことだが、そういうことを言うと、子どもを差別してはいけないという批判が必ず出る。子どもの能力に応じたカリキュラムを組むのがどうして差別なのか、わたしにはわからないが、たぶんそれも言葉の問題なのだと思う。子どもをカテゴライズする言葉や文脈がないのだ。

 本来差別というのはある特定の子どもたちから教育の機会を奪うことだと思うのだが、日本社会では微妙に違う。子どもをカテゴライズすることそのものが差別になってしまう。しかもすでに日本社会では、実際には教育の機会は平等ではない。富裕層の子どもは比較的いじめが少なく偏差値が高い私立校に行く。地方には偏差値の高い私立校が少ないので、そこでも都市部と地方の格差が生じることになる。

 そういった問題の解決法として、論議のための文脈の整備ということはほとんど考えられていない。教育では、教育基本法の改正が進められているし、不良債権を抱える銀行はペイオフが先延ばしされ、その他の構造改革ではまるで社会主義国のような「特区」が作られた。言葉や文脈が未整備のまま、格差を伴った多様性はさらに露わになっていき、格差も深まっていくばかりだが、言葉と文脈は旧来のままだから、置き去りにされようとする層は、自分たちが何者なのか、なぜ取り残されなければならないのか、わからない。

 みんな一緒のはずなのに、どうして自分たちだけが状況の変化から取り残され、尊敬されなくなり、プライドを失うのかがわからない。明らかに置き去りにされようとしているのに、それがなぜか、カテゴライズする言葉と文脈がないのでわからないのだ。

 日本でも置き去りにされたという怒りを持つ人々がしだいに増えるだろう。わたしたちの社会は、格差を伴った多様性を、差別のニュアンスを排してカテゴライズする言葉と文脈を持っていないし、持とうともしていない。置き去りにされた人々は、地方だけではなく都市部にも、また年輩層にも若年層にも、貧困層にも富裕層にも知識層にも、社会全体にフラクタルに存在する。

小論文ノートを作る40   [小論対策]

『置き去りにされる人びと(全ての男は消耗品である。vol. 7)』村上 龍/KKベストセラーズ

(P192-193)
 錯綜する情報を整理するためには、歴史的・客観的事実と、メディアや当局から流れてくる情報と、推測や個人的意見をはっきりと区別しなければいけない。歴史的・客観的事実とは、たとえばイラクが自国内のクルド人に対して化学兵器を使用したことがある、というようなことだ。多くの人のレポートとクルド人の証言がある。また、たとえば北朝鮮では金正日個人がほとんどすべての決定権を持っている、というのも客観的事実だろう。

 そういう風に考えると、歴史的・客観的事実だと思っていることが、メディアの未確認情報や、識者や当局の推測と混同されていることが多いのに気づくだろう。シャトルの爆発の翌日のニュース番組では、情報が限られているにもかかわらず、事故について推測で語られていた。

 しかし、事故の翌日という時点でも、それが客観的事実だとわかっていることがあったのに、そのことはほとんど話題にならなかった。それは、NASAの予算が削られ続けたということだ。「こういった悲惨な事故があっても宇宙への夢を持ち続けましょう」みたいなことが盛んに識者によって言われていた。ほとんどの人が宇宙旅行や宇宙ステーションが実現することを望んでいるわけで、問題は、夢がどうのこうのということではなく、アメリカ合衆国に宇宙開発を進めるだけの十分な資金がない、ということなのだ。

 それにしても、北朝鮮が核兵器を所持している、というのは客観的事実なのだろうか?

(P204-206)
 日本のテレビ局や新聞社所属の記者は戦争が始まってからすぐに全員バグダッドを離れた。まるで当然のことのようにそそくさとバグダッドを離れたので、わたしはびっくりした。日本人ジャーナリストで残っているのはフリーの人たちだけだ。たとえばNHKは恥ずかしくないのだろうかと思う。勘違いしないで欲しいのだが、わたしは死を覚悟でバグダッドに残るべきだと言っているわけではない。NHKの場合、アンマン、カタールの米軍司令部、空母キティーホ-ク、アメリカ軍の補給部隊などに取材記者が派遣されている。

「それではバグダッドの今の様子を、隣国ヨルダンの首都であるアンマンのD記者に聞いてみましょう」
 と言って、レポートが始まるのだが、わたしは、アンマンにいてバグダッドの何がわかるのだろうといつも疑問に思った。アンマンにいて、どういうリソース・取材源でバグダッドの様子をレポートしているのかがわからない。そこには、アンマンはイラクの隣国なのでそれなりにバグダッドのことがわかるのです、という古い常識による了解がある。一般国民に情報を「整理して」与える、というような近代化途上の傲慢な考え方だ。

 アンマンにいる記者は、CNNやBBC、それにインターネットでとっくにわたしたちが知っていることを、さも「自分で見てきたことのように」レポートするだけだ。

 わたしたちは、事実としてわかっていることと、わかっていないことを正確に区別した報道を求めている。自分の目で見たことと、伝聞と、自分や誰かの意見を区別すること、それが情報が錯綜する戦争をレポートするときの基本姿勢ではないだろうか。わからない、という情報は重要だ。

「バグダッドの様子はわかりません」
「バスラが制圧されたのかどうか、米英軍は制圧されたと発表し、イラク情報省は制圧されていないと発表しましたが、カタールにいるわたしは確認できません」
「イラク市民がどの程度フセインを支持しているのか、アンマンではわかりません」
「米英軍の補給線が確保されているのかどうか、ここキティーホークからはわかりません」

 そういったレポートが必要とされているが、そういう姿勢はない。それはたとえばNHKという報道機関に、わからないという言葉は国民を不安にさせるのではないかという懸念があるからではないか。一般国民は安心したがっているからわからないなどと言ってはいけない、と思っているのではないだろうか。

 確かに、わからないという言い方は人を不安にさせる。日本経済の再生は可能なのでしょうか、という質問が決してなくならないのはそのためだ。ちょっと考えてみれば、日本経済が再生できるかどうか、はっきりとわかっている人がいるわけがない。

小論文ノートを作る39   [小論対策]

『置き去りにされる人びと(全ての男は消耗品である。vol. 7)』村上 龍/KKベストセラーズ

(p47)
 日本という国も、グローバルな市場から見放されつつあり、グローバルな市場との積極的なコミュニケーションを図ることができていない。たとえば、日本の大学教育を活性化させるためには、日本人学生・教授ができるだけ多く海外に留学・赴任し、できるだけ多くの海外留学生・教授が日本で学び、教えることしかないが、日本国内で論議されるのは、現在の大学のカリキュラムを変えることだとか、学生による教授の評価だとかそういった些末なことだ。

(p63)
 他国や他人に協力したいと思うならば、その国や人が何をしようとしているのか、また何を望んでいるのかについて正確な情報がなければならない。当たり前のことだが、彼が望むことを知らなければ、彼に対し協力することはできない。

 だが日本にはそういうコンセンサスが希薄だ。
「あなたはわたしに何をして欲しいのですか」
 という質問は、日本社会では開き直った態度になってしまう。直接相手に問うのではなく、「相手の意を汲んで」何事かを行うのが美徳になっている。それは国内的に風習や習慣が比較的均一的だったせいもあるだろう。

 また、支援や協力というのは、その実効性よりも、それがいかに自己犠牲的だったかで評価されがちだ。実際的な手伝いの内容よりも、日曜日・休日を返上して上司の引っ越しの手伝いに行ったということで、部下の忠誠心が計られる。したがってこれまでの日本社会における支援や協力というのは、自己犠牲とほぼ同義語だった。何をやったかよりも、いかに自分を犠牲にしたかが問われてきたのだ。

(p100-102)
 旧文部省がずっと提唱してきたゆとり教育だが、学力が低下するのではないかという批判が絶えない。だが問題は、ゆとり教育が効果的か、それともやはり学力の低下を招くのかということではない。教育に、どうしようもない格差ができてしまったことの方が重大なのだ。偏差値の高い生徒とその親の年収を比較した資料があるといいと思う。都市部の裕福な親は子どもを私立に通わせる。公立高校にはどうしようもない格差が生まれていて、底辺校と呼ばれる高校では、学力もへったくれもなく、最優先されるべき問題は治安の回復であるというようにアフガニスタンのような状態に陥っている。偏差値の高い私立中学には、海外の大学に留学するための準備を始める生徒が大勢いる。

 大ざっぱに言って、数パーセントの優秀な子どもと、ほとんど希望を見いだせない30パーセントの底辺の子ども、その残りの中間層、という風な分類が可能で、実態としてはさらに細かく分かれるだろう。そういう格差をそのままにして、全体の底上げを目指す実効的な教育政策などあるわけがない。格差を伴った多様性への配慮がないので、子どもに教養を身につけさせるというようなばかばかしいことしか考えられない。

 教育問題を考えるのだったら、まず子どもの格差を見なければならない。だが、格差に触れるのは相変わらずタブーとなっているようだ。まるで明治時代に義務教育が始まった時と、何も変わっていないように見える。そういった格差は突然発生したものではない。明治時代から格差はずっと存在した。旧帝大に行き官僚になるエリートと、小学校を出てすぐに工場で働く行員との間には、ものすごい格差があったが、それはエリートの数が極めて少ないということと、エリート以外の人々への情報が限られたものだったので非常にうまく、しかも自然に隠蔽がなされていた。

 明治から戦前、戦争中は、国家の敵をはっきりと特定できたので、国民が一丸となることが可能で、格差はほとんど目立たなかった。戦後は、奇跡的な経済成長があった。つまり利益を全国民に配分することができたので、それが格差を隠蔽した。中卒の工員も、東大出の役人も、だいたい同じ時期に電気製品や自家用車を買うことができたし、アメリカのように居住地域が分かれることで格差が露呈することもなかった。

 教育は、格差を隠蔽するためにも機能した。現在に至っても、日本の教育政策の基本は、総体としての子どもの基礎学力を向上させることが基本となっている。中間層の中から、優秀な子どもへの仲間入りを果たすパーセンテージを上げるとか、底辺層の子どもたちに学習への意欲を持たせるというような格差に対応する政策はない。つまりどんな政策を考えても、それは格差を直視したものではないので、必ず不備があり、批判を受ける。そして何よりもまったく有効性がない。 

小論文ノートを作る38   [小論対策]

『置き去りにされる人びと(全ての男は消耗品である。vol. 7)』村上 龍/KKベストセラーズ

(p13)
 IT革命というのは日本の造語だが、とりあえずそういったものが起こるとして、その恩恵が日本人全員に行き渡るというようなことはない。

 ITはコミュニケーションの道具だから使いこなせる人はそれによって大きな利益を得るだろう。使えない人は、あるいは発信するコンテンツのない人は、ITに金を支払うだけになるだろう。

(p15-16)
 昔はよかった、と言う人の多くは、過去の日本人の活力を懐かしみ、現代にそれが少ないことを嘆く。ただ、そんなことは当たり前で、日本だけではなく、他のどんな国でも、社会でも、貧しかった頃に必要とされていた活力は豊かになると失われる。問題は、日本人にはその特性として大前提的に活力が備わっていたかのような勘違いが多いことだろう。

 自営業が減っているのが日本だけなのは、他の先進国では、豊かになっても自営業が減らないように、国民の活力が急激に減らないように政策やシステムを考えているということだろう。より競争が激しくなるシステムを導入するとか、競争に勝った人への報酬を多くするとか、外部の資本や経営者や労働力を導入するとか、その方法はいろいろあるが、要するにインセンティブを準備するということだろう。

 活力がある人間が利益を得るのだというアナウンスメントが必要なのだと思う。だが、現在の日本ではそういうアナウンスの文脈がない。さあみなさんご一緒に活力を復活させましょう、という風にどうしても日本人全体に呼びかけてしまう。

(p28)
 多様化というのは、様式が多くなると言うことだが、現在は違う。格差が発生しているのだ。

(p31)
 誰にでもチャンスがある、というのは嘘でも幻想でもない。だが、自分はどういう人生を望むか、という戦略がない人間には最初からチャンスがない。自分が何をしたいかがわかっているからその目標に従って科学的な努力が可能になる。

 戦略を行使するための、モチベーションの対象を持っているか持っていないかで全てが決まってしまう。そして、モチベーションの対象を持っている人は、全体の数パーセントだろう。彼らは自分の人生を選択する。自分の人生を選択するために、自分の資源をチェックし、モチベーションの対象に集中して投資するのだ。この世の中には、それができる人と、できない人がいるだけで、それ以外にはいない。きっかけも秘訣も苦労も関係がない。

 残酷だが、モチベーションの対象を探す年齢には限界がある。わたしの考えでは、28歳というのがその年限だ。28歳までに自分のモチベーションの対象を探せないと、人生を選び取ることはむずかしくなる。簡単に言うと、他人にただこき使われるだけ、ということになってしまうのだ。

(p32)
 競争社会で生きていくのか、それとも競争のない社会を選ぶのか、と言う選択だ。
 
 社会全体が生き方の選択肢を提示できていないので、子どもや若者はどう生きればいいのかわからない。生き方を選ぶのはあなた自身だ、みたいなことを言う人が多い。もちろんその通りなのだが、たとえば中卒で医者になるのはほとんど無理だ。生き方という言葉は曖昧で、ニュアンスが趣味的になってしまう。

(p38-40)
 彼らのプライドは、大企業に勤め、一生勤め上げるというものだった。そういったシステムが根本から変化しようとしている。

 若い人々は敏感だから、システムの変化を察知する。察知はするが、どう対応すればいいのかという教育がないので、フリーターという曖昧な立場を選んだり、ひきこもりというさらに閉塞的な選択をしたりする。教える側も、雇用慣行の変化に対応できていない。どうすればいいのかわからないのだ。

 終身雇用と年功序列を基本システムとした男性中心主義の社会が終わろうとしていて、それに代わる社会のイメージを持つことがむずかしい、それが今の状況だ。どういう社会になるのか不明だから、50代、60代の経営者や企業幹部は、自分が働いている間だけ会社が存続してくれればいいと「逃げ切り」を謀る。財務状況や経営体制は最悪で、今のままだと、この先10年、20年、会社がつぶれずに生き残るとは考えられないが、とりあえず自分が退職するまでもってくれればいいと思っている。だから、会社の再生などという面倒なことは考えない。定年までサラリーをもらい、退職金をもらえればそのあとは会社がつぶれようが、残った若い社員が路頭に迷おうが関係ない。

 銀行の不良債権がいっこうに減らないのは、経営陣が本気で手をつけると経営責任を取らされて自分の首が飛ぶからだ。せっかく取締役まで出世したのに、責任を取って退職金がもらえなくなるのなら、どんな衰退企業にでも追い貸しするだろう。彼にとってはきわめて合理的な行動だ。

 やっかいなのは、政府がトップダウンで発想の転換を訴えても、明治の開国や、終戦後の民主化などとは違って、国民が一斉に何かを信奉すればそれで済むわけではないという点だ。つまり、これからは自立した個人が自己責任を負ってリスクに見合ったリターンを得る時代になります、とアナウンスしても、伝わらない。

 校庭に生徒全員を集めて整列させ、右を向けと校長が怒鳴れば、いやいやながらでも生徒は右を向くだろう。受験勉強をしろと怒鳴れば、多くの生徒が従うかも知れない。だが、生徒全員に、これからは個人として自分で考えて生きなくてはいけないのだ、と怒鳴っても、彼らは混乱するだけだろう。自分の頭で考え自分で判断して決めろ、と「全体」に向かって怒鳴ってもムダだ。

 あちこちで、「右向け右」というやり方で個性化を促すという矛盾が繰り広げられている。一人一人の個別の人間にアナウンスするにはどうすればいいのか、メディアも政府も知らない。そんなことはこれまでやったことがないからだ。政府には2005年までに1000を越えるベンチャービジネスを立ち上げる、という構想があるらしい。そんなものを目標にしてどうするのだろう。

 来たるべき社会のイメージを示し、どういう人間が有利なのかをきちんとアナウンスして、そのための教育制度を整えれば、放っておいても1000や2000を越えるベンチャービジネスは起こる。

 誤解されると困るが、わたしは終身雇用がすばらしいシステムだと思っているわけでも、構造改革が間違いだと思っているわけでもない。ただ終身雇用という雇用慣行がなくなればライフスタイルが変化してしまうというのは愚かなことだし、改革のアナウンスメントがフェアではないと思っているだけだ。異なったシステムや考え方の枠組みの必要性をアナウンスするときに、これまでと同じ文脈内でそれをやっても効果が薄いということだ。

小論文ノートを作る37   [小論対策]

『13歳のハローワーク』村上 龍/幻冬舎
  好奇心を失ってしまうと、世界を知ろうとするエネルギーも一緒に失われます。

(p6-7) 「はじめに」より抜粋
 いい大学に行って、いい会社や官庁に入ればそれで安心、という時代が終わろうとしています。それでも、多くの学校の先生や親は、「勉強していい学校に行き、いい会社に入りなさい」と言うと思います。勉強していい学校に行き、いい会社に入っても安心なんかできないのに、どうして多くの教師や親がそういうことを言うのでしょうか。それは、多くの教師や親が、どう生きればいいのかを知らないからです。勉強していい学校に行き、いい会社に入るという生き方がすべてだったので、そのほかの生き方がわからないのです。

 どう生きるか。それはむずかしい問題です。いろいろな考え方があるでしょう。しかし、ここにシンプルで、わかりやすい事実があります。それは、すべての子どもは大人になって、何らかの仕事で生活の糧を得なければならないということです。社会的なケアが必要な重い障害を持つとか、重いハンディがある子どもにしても、必ず何かできることがあるものです。子どもはいつか大人になり、仕事をしなければいけないのです。仕事は、わたしたちに、生活のためのお金と、生きる上で必要な充実感を与えてくれます。お金と充実感、それはひょっとしたら、この世の中でもっとも大事なものかも知れません。子どもがいつかは大人になり、何らかの方法で生活の糧を得なければならないとしたら、できれば嫌いなことをいやいやながらやるよりも、好きで好きでしょうがないことをやるほうがいいに決まっています。

 好きな分野の仕事で生活できれば、それにこしたことはないということです。わたしは、この世の中には2種類の人間・大人しかいないと思います。それは、「偉い人と普通の人」ではないし、「金持ちと貧乏人」でもなく、「悪い人と良い人」でもなくて、「利口な人とバカな人」でもありません。2種類の人間・大人とは、自分の好きな仕事、自分に向いている仕事で生活の糧を得ている人と、そうではない人のことです。そして、自分は何が好きか、自分の適性は何か、自分の才能は何に向いているのか、そういったことを考えるための重要な武器が好奇心です。好奇心を失ってしまうと、世界を知ろうとするエネルギーも一緒に失われます。この本は、今の好奇心を、将来の仕事に結びつけるための、選択肢が紹介してあります。この本を眺めていると、この世の中には実にいろいろな職業・仕事があることがわかると思います。繰り返しますが、自分に向いた仕事は決して辛いものではありませんし、どんな仕事も、それが自分に向いたものであれば案外面白いのです。

小論文ノートを作る36   [小論対策]

『龍言飛語』 村上 龍/集英社

(p62)
 「あなたはセクシーになれる」
 なれないよ。なれないから、なれるといえば売れる。本当になれるんだったら買って読みはしない。言っちゃえばいいんだ。はっきり「なれません」と。楽だよ。あなたは一生セクシーにはなれません。恋愛もできません。そうしたら諦めて別の生き方を見つけるかもしれないし、世界のために働くかもしれないだろう。

(p77)
 縄文時代から始まって、日本の政治の質は今が最低だと思う。これだけ世界に遅れをとるともうどうしようもない。決定的に古いんだな。森羅万象が日々新しくなっていく中で致命的に古い。そして危機感がない。危機感さえあれば物事を考えるようになるのにね。

(p106)
 イギリスをはじめヨーロッパの人は躾が厳しいからね。犬を散歩させていて鎖を離しても、絶対に人を噛んだり、どこかに逃げたりすることはない。ぴたっと横について公園を歩いている。そういうことができるのだって小犬の頃からぶつときはぶつ、褒めるときは褒めるときちんと教育しているからだ。基本的には犬も人間も同じだ。どれだけそいつと物理的な時間をともにしたかというので決まってしまう。物理的な時間をとらなきゃダメなんだ。

(p146)
 今、子供たちは何に夢中になれるんだろう、プロ野球の選手を見てても憧れようがない。という話をすると、すぐ受験制度のせいだ、などと言い出す奴がいる。

 それは非常に底の浅い意見だ。結局、ヒーローというのは夢がある国にしか生まれない。夢と希望が国じゅうに溢れていないといけない。大人たちがこの三百万円をどうやって増やそうか、なんてことにエネルギーを使っているような国はもう夢がないということさ。塾があろうがなかろうが関係ない。

 最近、どうも問題が見えないというか、何が本当に問題になっているかがわかりづらい。だから、すぐそういう身近な受験戦争とかに、安易な結論を出そうとする奴が出てくるんだよ。

(p154)
 俺はそのとき、こういう国は人質を助けられないと思った。ちょっと工夫すればできることをやらない。何も考えない。世界一の外貨準備高を誇っている国が、人質の百人を助けられない。戦争には金がかかるんだ。こんな簡単なことも日本人はわかってないと思うよ。リアルに肌身に感じてはいない。

(p162)
 海外に五年、あるいは十年住んでいた人は、それだけで無条件に尊敬すべきだ。それだけで偉いよ。帰国子女がいる学校は彼らを中心に授業をすべきだ。帰国子女は違う言葉の人間、違う宗教の人間とのつき合い方を知っている。教師よりはるかに偉い。

 そういうことから改めていかないと、永遠にこのままだよ。

(p165-166)
 子供との話し合いを面倒がることというのは、日本の外交能力のなさとまったくイコールだと思う。相手の顔色をうかがい、決して自分の意見は言わず、言葉が違う人間には話しかけられず、アメリカに追随してるのと同じことだ。

 自分の子供に向かい、子供に分かる言葉で説明できない人間が、価値観の違う国の人間に対し、自分の立場を説明できるか。子供というのは言葉の違う外国人と同じような存在だ。そういう相手にも理解できる言葉で、自分が何をしたかったのか、今は何をしたいのかをわからせようという姿勢がまったくない。

 日本にいる限り、制度の中の親子、夫婦、会社の上下関係、あるいは仲間意識といったものの中で話は収まってしまう。努力して相手にわかる言葉で説明する必要なんてないんだよ。

 そういう意味では、もともと外交能力が育たない土壌なんだ。外交というのは、違う言葉、違う価値観の人間とどうやって共通の土俵で話し合いをするかということだから。

(p173)
 金持ちといっても、せいぜい成金のボンボン止まりでしかなかった。少しばかり上等な生活にちょっと飽きたからといって、ジャングルに行くとか砂漠に行くとか、そういうことはできない。そこまでリッチじゃない。本当にリッチな男っていうのは、クルーザーが持てるというだけじゃない。自分を試したいとか、自分を確認したいとかいう意味で何かをやったり、どこかへ行ったりする。

 男には、そういう何かつらい部分があるけれども、女にはない。女はクーラーの効いた部屋やディスコのあるスキー場とかが好きなんだ。女には子供を産んで育てるという大事な仕事があるんだから。そのために快適な環境に住むというのは本能なんだ。

小論文ノートを作る35   [小論対策]

『すべての男は消耗品である。vol. 5』 村上 龍/KKベストセラーズ
(p67) いい気になってしまうことのデメリットは、考え抜くことを放棄するという点だ。
(p62)
 必要なのは修行を積んで高みに達することではなく、他者、外部に飢え続けるエネルギーを得るためのモチベーションを設定することである。

(p218)
 無知というのはつくづく恐ろしいと思う。
 知というのは、何事かについて自分がどれだけ知らないかを知っていることである。
 無知な人たちは、自分たちが無知だと知らない。無知は場合によってはハッキリとした罪になる。

(p220-221)
 世界との距離を測ることができなかった。
 非科学的な戦略、情報の軽視、世界に対する無知とその裏返しの傲慢、あの頃と何も変わっていない。
 日本人は自分たちにとって都合の悪いことはすぐに忘れてしまう。
 結局そういうやり方が通用しなくなっているのである。

(p225-228)
 集団における甘えは相互批評を否定するので基本的に危険だが、「全体が一丸となれるような」モチベーションがある場合に、一見有効なもののように映ることがある。たとえば国家における近代化のような大目標がある場合などである。

 そういう一体感が支配的な価値観になっている集団の中では、構成員どうしの確かな絆のようなものが最優先の関心事になる。

 苦労は非常に尊重される。というよりも、全ての成功の背後には苦労がなければならない。苦労を重ねて、同質の集団の中を這い上がったものだけが、栄光を得る資格がある。記事はもっぱら苦労についてのみ書かれる。苦労について書くのが簡単だからだ。

 苦労に比べて、才能や科学的トレーニングや技術や情報といったものは軽視される。あるときはそれは憎むべきものとなる。才能、科学的な訓練、技術、情報、それらは、いずれも集団を横断するためのものだからだ。あるいは、ある集団を出て別の集団に入っていくために必要なもので、一体感を基調とする共同体内では恐怖の対象となる。

(p242)
 重大な事態に際して、わたしたちはそもそも批判する言葉と文脈を持っていないのではないかということを指摘したい。批判には基本的な理念や将来へのビジョンが不可欠だ。

(p245)
 理念というのは、絶えず疑いを持って現状を見つめることのできる何かだと、柄谷行人は言った。わたしは正しいと思う。