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小論文ノートを作る54   [小論対策]

「ダメな女」  村上 龍/光文社

(p24.)
 そもそもダメな女というのは、このダメな日本の価値観を遵守(じゅんしゅ)している女である。結婚までは貞操を守るとかそういう価値観ではなくて、いつも周囲の目を気にして、自分の個人的な欲望とか希望に気づこうとしない女のことだ。

(p.35)
 今、出版とインターネットと次の映画で、重要な仕事をいくつか抱えている。わたしはスタッフはみんな女性か若い男にしたいと思う。特に大会社のサラリーマンのおじさんは、全滅です。わくわくするような仕事ができていないので、モチベーションが「出世」だけになっている。頭にあるのは、その会社で偉くなることだけ。今さら肩書きがそんなに欲しいか、と思うけど、どうやら喉から手が出るほど欲しいらしい。他に生き甲斐がないので、出世だけになるわけですね。

(p.36)
 出世は「成果」ではなく、「失敗をしない」という基準で決められるから、サラリーマンのおじさんは何かトラブルが発生すると、責任を他人に押しつけて(部下に押しつけることが多い)逃げようとする。

(p.53)
 世界を相手に国際競争をするのに日本のくだらない「構造」は必要ない。そこから脱出する方法を探るべきだ。

(p.81)
 共同体が信頼できなくなった。これから先も信頼が回復することはあり得ない。これから大切になるのは、信頼できる「個人」だ。何となく集まって楽しく騒げる「仲間」ではなく、数は少なくても「信頼できる個人的な友人」が大事になるだろう。

(p.89)
 ダメな男というのは、リスクを負い、コストを払いながら何事かを成し遂げようとしない男のことだ。失敗を他人のせいにできない地点に立つ勇気がない男のことです。

(p89.)
 これまで、日本人は、力のあるものに頼り、依存し、甘えるのはいいことだと教えられてきた。もはやそれは悪いことになった。そういう姿勢では生きていけなくなっていて、その傾向は益々強くなっていくだろう。

(p.91)
 乳幼児にとって、親というのはほとんど世界の全てだ。親からひどい虐待を受けるということは、世界から拒絶されると言うことになる。困ったことに、乳幼児は親を嫌いになったり、憎んだりすることができない。親から殴られるとき、そういう子どもたちは自分が悪いのだと思いこんでしまうのだ。そして、自分を嫌悪するようになる。

 そういった子どもたちが溌剌(はつらつ)と遊べるわけがない。不信に充ちた人間関係と嫌悪すべき自分だけが、そういう子どもにとっての、現実なのである。

 そういう子どもでも、さまざまな社会的な学習を経て、大人になる。そういう大人になった女は、怖い。ダメな女ではなく、怖い女になる。

(p.115)
 変化に対応できない人々は、他人の不幸を生き甲斐にする。
 世も末だ、と嘆いても意味がない。新しい不快な現象の大半は、これまで近代化の陰に隠れていたものが見えるようになっただけなのだ。昔は良かった、と過去を懐かしがるのも間違っている。現代の日本に噴き出している問題は、ずっと昔から存在していたことが露わになっただけだからだ。

(p.119)
 自分たちが社会を変えておいて、現在を嘆くのはフェアではない。彼らが今を嘆くたびに、子どもたちはわけが分からなくなる。じゃあ、どうしてそんな世の中にしたんだ、という風に子どもは思うはずだが、子どもには発言力がない。

 だが今の老人たちはダメなわけではない。厳然とした力を持っている。パワーや金を貯め込んでいるのだ。やみくもに彼らに抵抗しても、子どもや若者は負ける。価値観の変化がない時代が長く続いたために、子どもや若者は老人に対し情報でも優位に立てない。

 現代を嘆く老人を信用してはいけない。彼らは害毒を垂れ流している。

(p.191)
 やりたいことが見つからない、という状態は危険だ。他にすることがないからという、ただそれだけの理由でリスクが高い行為に走る人は少ない。もし熱中できるような何かを持っていたら、あの十七歳の少年はバスジャックをしなかったかも知れないし、あの文京区の主婦は殺人を犯さなかったかも知れない。

 やりたいことを見つけるのは簡単ではないし、やりたいことを探し、それを仕事にするための基礎を学ぶのが学校という場所ではないかと思うのだが、今の日本の学校にそういう雰囲気は皆無だ。

 消費が回復しないのは、将来が不安なのではなく、何にお金を使えばいいのか分からないからではないかと私は思う。お金を有効に使うのは非常に難しい。非常に多くの日本人が、ブランド品に象徴されるものに、お金を使い切ってしまおうとしているように見える。

小論文ノートを作る53   [小論対策]

「ダメな女」  村上 龍/光文社

(p24.)
 そもそもダメな女というのは、このダメな日本の価値観を遵守(じゅんしゅ)している女である。結婚までは貞操を守るとかそういう価値観ではなくて、いつも周囲の目を気にして、自分の個人的な欲望とか希望に気づこうとしない女のことだ。

(p.35)
 今、出版とインターネットと次の映画で、重要な仕事をいくつか抱えている。わたしはスタッフはみんな女性か若い男にしたいと思う。特に大会社のサラリーマンのおじさんは、全滅です。わくわくするような仕事ができていないので、モチベーションが「出世」だけになっている。頭にあるのは、その会社で偉くなることだけ。今さら肩書きがそんなに欲しいか、と思うけど、どうやら喉から手が出るほど欲しいらしい。他に生き甲斐がないので、出世だけになるわけですね。

(p.36)
 出世は「成果」ではなく、「失敗をしない」という基準で決められるから、サラリーマンのおじさんは何かトラブルが発生すると、責任を他人に押しつけて(部下に押しつけることが多い)逃げようとする。

(p.53)
 世界を相手に国際競争をするのに、日本のくだらない「構造」は必要ない。そこから脱出する方法を探るべきだ。

(p.81)
 共同体が信頼できなくなった。これから先も信頼が回復することはあり得ない。これから大切になるのは、信頼できる「個人」だ。何となく集まって楽しく騒げる「仲間」ではなく、数は少なくても「信頼できる個人的な友人」が大事になるだろう。

(p.89)
 ダメな男というのは、リスクを負い、コストを払いながら何事かを成し遂げようとしない男のことだ。失敗を他人のせいにできない地点に立つ勇気がない男のことです。

(p89.)
 これまで、日本人は、力のあるものに頼り、依存し、甘えるのはいいことだと教えられてきた。もはやそれは悪いことになった。そういう姿勢では生きていけなくなっていて、その傾向は益々強くなっていくだろう。

(p.91)
 乳幼児にとって、親というのはほとんど世界の全てだ。親からひどい虐待を受けるということは、世界から拒絶されると言うことになる。困ったことに、乳幼児は親を嫌いになったり、憎んだりすることができない。親から殴られるとき、そういう子どもたちは自分が悪いのだと思いこんでしまうのだ。そして、自分を嫌悪するようになる。

 そういった子どもたちが溌剌(はつらつ)と遊べるわけがない。不信に充ちた人間関係と嫌悪すべき自分だけが、そういう子どもにとっての、現実なのである。

 そういう子どもでも、さまざまな社会的な学習を経て、大人になる。そういう大人になった女は、怖い。ダメな女ではなく、怖い女になる。

(p.115)
 変化に対応できない人々は、他人の不幸を生き甲斐にする。

 世も末だ、と嘆いても意味がない。新しい不快な現象の大半は、これまで近代化の陰に隠れていたものが見えるようになっただけなのだ。昔は良かった、と過去を懐かしがるのも間違っている。現代の日本に噴き出している問題は、ずっと昔から存在していたことが露わになっただけだからだ。

(p.119)
 自分たちが社会を変えておいて、現在を嘆くのはフェアではない。彼らが今を嘆くたびに、子どもたちはわけが分からなくなる。じゃあ、どうしてそんな世の中にしたんだ、という風に子どもは思うはずだが、子どもには発言力がない。

 だが今の老人たちはダメなわけではない。厳然とした力を持っている。パワーや金を貯め込んでいるのだ。やみくもに彼らに抵抗しても、子どもや若者は負ける。価値観の変化がない時代が長く続いたために、子どもや若者は老人に対し情報でも優位に立てない。

 現代を嘆く老人を信用してはいけない。彼らは害毒を垂れ流している。

(p.191)
 やりたいことが見つからない、という状態は危険だ。他にすることがないからという、ただそれだけの理由でリスクが高い行為に走る人は少ない。もし熱中できるような何かを持っていたら、あの十七歳の少年はバスジャックをしなかったかも知れないし、あの文京区の主婦は殺人を犯さなかったかも知れない。

 やりたいことを見つけるのは簡単ではないし、やりたいことを探し、それを仕事にするための基礎を学ぶのが学校という場所ではないかと思うのだが、今の日本の学校にそういう雰囲気は皆無だ。

 消費が回復しないのは、将来が不安なのではなく、何にお金を使えばいいのか分からないからではないかと私は思う。お金を有効に使うのは非常に難しい。非常に多くの日本人が、ブランド品に象徴されるものに、お金を使い切ってしまおうとしているように見える。

小論文ノートを作る52   [小論対策]

「とおくはなれてそばにいて」  村上 龍/KKベストセラーズ

(p.256)
 詩人は、あんたは地獄へ堕ちるな、と言った。ぼくが納得できないという顔をしていると、ただし、と詩人は笑った。そして、あんたはよく知っていることだろうが、地獄は退屈しない、とぼくの耳元で囁いた。

(p.272)
 幼児や子供は親に依存しているものだ。自分一人では生活できないからしようがない。幼児や子供にとって親は世界全体に等しい。親からひどいことをされる子供の脳にはアドレナリンか、それと似たような作用の物質が分泌される。それは生命の危機にさらされたときに分泌されるもので、闘争または逃亡のためにからだの働きを整える。

猫に追いつめられたネズミからもアドレナリンは大量に出るんだよ。心拍数は上がり、血管は膨張し、血糖値も上がる。戦う態勢と逃げる体制が整うわけだが、子供は逃げることはできない。だってどこにも行くところがない。親とは戦うこともできないし、親からは逃げることもできない。

もっと厄介なのは幼児や小さい子供の頃は親のことを嫌いにはなれないということだ。親からひどい目に遭った子供のからだの中ではアドレナリンが垂れ流しになっていて、やがて虐待が日常化してしまうと、慣れが起こって、アドレナリンはもう分泌されなくなる。垂れ流しのあとでアドレナリンが分泌されなくなると、人間の活動は異常に低下する。反応が鈍くなり、血流が減り、無表情になる。

そういう過程で尻や太腿の肉にも張りが失われていく。そういう人間はコミュニケーションが基本的に不可能になってしまう。他人と自分にあるのは不信感だけで、自分のことを好きになることがものすごくむずかしい。

(p.290)
 おれたちはおいしいものを食べるために生きているわけじゃないし、おいしいものを食べたからといって人生が容易になるわけでもない。重要なのは何を食べるかじゃなくて、誰と食べるかだ。おいしいものを食べるよりも、誰と知り合うかというほうが重要なんだ。

小論文ノートを作る51   [小論対策]

『円安+インフレ=夜明けor悪夢? 村上龍』 村上 龍/NHK出版
 少なくとも政策を語るのであれば、現実に立脚してできることを主張すべきだということです。

(p.10)
 構造改革にしろ、グローバリズム、市場主義や能力・成果主義にしろ、それが日本社会全体にどういう影響を及ぼすのかという文脈には、わたしたち一人一人に及ぶ影響を隠蔽する仕組みが最初から含まれている。不思議なことに、「一人一人が自分で自分のことを考える」というような日本語の言い方にも、「一人一人」が何らかの集団に属していることが前提となっているような気がする。「考える」という概念の基本には、ミクロの視点がなければいけないのではないだろうか。

 ミクロの視点というのはミもフタもない感じがする。つまり沈みかかった船から自分一人がどう助かるかを考えているようなニュアンスがある。自分のことだけを考えていればそれでいいのかという批判が必ず出るのはそのせいだ。だが、日本人全員が同じ船に乗っているという比喩に、すでにそもそも無理があるのかも知れない。自分のことを自分で考えるというのは、沈みかけた大きな船から自分だけが助かる方法を、考えるのではなく、自分がどういう船に乗っていて、その船はどちらに向かっていて、行く手にどういうリスクが待ち受けているのかを考えることなのかも知れない。

(p.64)
藤巻:基本的に、1ドル360円のとき日本経済は強かったわけです。もし今もそうだったらどうなっているか。日本は元気でアメリカはぽしゃっていると思います。1ドル130円だからアメリカは強いんです。中国も同じです。人民元が非常に安いからあれだけ元気なのであって、人民元が強くなっていけば自然に国力は落ちていきます。

(p.65)
藤巻:例えば中国のネギが3本で100円で、日本は198円です。日本の農業団体は構造改革によって3本130円にしようとしているけれども、それでも30円のギャップは埋められない。だからセーフガードの発動を、という話になるのですが、人民元はドルとリンクしていますから、1ドル240円にすれば中国のネギは200円になるんです。セーフガードなんて必要ない。

(p.101-102)
木村:アメリカがうまいと思うのは、アフリカとか中近東とかロシアとか、資本主義ではなかった地域が資本主義に変わりましたよね。その移行期に彼らが何をするかというと、その国に米国資本のホテルとマクドナルドを送り込むわけです。そうすると、ロシアだったら、マクドナルドにロシアの人たちのルーブルが集まって、ホテルには外国人旅行者のドルが集まる。そこでドルとルーブルの交換経済をつくってしまうんです。それでみんながドルを認知し、ドルがロシアで使えるようになるから、凄まじいドル需要が生まれる。

 これをアメリカから見ると、ロシア人たちが「ドル」と印刷してあるだけの紙切れをありがたく受け取って、その交換品としてロシアのものを安く買えるということになる。こういう発想が通貨戦略なんですね。結局、決済に関わるおいしいビジネスはすべてアメリカが押さえてしまうわけです。

 ヨーロッパは賢いですから、このままではまずいと思ったんでしょう。ドイツマルクが東欧でがんばっているといっても、一人だけでは、国をあげて全世界的に通貨戦略を展開しているアメリカにはかなわない。だからユーロというものをつくった。そして、通貨はただの紙切れにすぎなくて、イリュージョンだということもよくわかっている。フィジカルな経験がないといけない。つねに決済に使われて価値があると思い込ませ続けないと、通貨のバリューというのは定着しないんです。だからキャッシュ化を急いだんです。非常に賢明ですね。

北野:今の議論でいくと、要するに通貨が強いことを利用するのではなくて、通貨を利用するということですね。強いか弱いかというのはマーケットが決めるから前提にできない。
木村:その通りです。
北野:通貨を利用するということで言うと、それはアメリカにできるけど、日本にはできないなと思うのですが、どうですか。
木村:そういう観点から評価すると、円は絶対売りになる。なぜなら、アメリカには通貨戦略があって、日本には通貨戦略がない。戦略がないのとあるのと、どちらが勝つかは明白です。
河野:日本で為替レートが問題になるときというのは、円高が進んで大変だとか、円安が進んで大変だというときですから、いずれも対処療法ばかりで、おっしゃった通りストラテジーが全然ないですね。
山崎:困った人しか声をあげないから、どっちにいってもまた困った人たちが出てくる。
木村:これだけ通貨が強くなったのに、自分の通貨圏を構築できなかった国というのは世界史上日本しかないんですから。

(p.140)
木村:もし、政策論を語るとするなら、いくつか必ず満たさなければならない条件があります。一つは先ほども指摘しましたが、現実的に可能であると言うことです。できなかったらしょうがない。もう一つはコントロールできるということ。自分の思い通りにその政策手段を管理できなければならない。やってみたけれど、「暴走してしまいました。ごめんなさい」というのでは、国民はたまったものではありません。そして最後に、結果を検証することができるということです。検証できないと「きっと正しかったはずだ」という思い込みで終わってしまう。

 最低限、この3つの条件が揃わないと、やったのはいいが違う方向に行ってしまったとか、誰がやったかよくわからないけれどたまたまそうなった、ということになるでしょう。これでは近代科学とは言えません。
 少なくとも政策を語るのであれば、現実に立脚してできることを主張すべきだということです。

(p.212)
山崎:原理的に全員が助かるという考え方ではないのですが、とる側、とられる側というか、相対的に得をする側と損をする側というのは必ずあるわけです。年金の問題にしても、税金の問題にしても、公共事業にしてもそういうのがあるわけですが、それは何か天のような物から吸い上げられるような形でとられるわけではないでしょうから、一つは誰がとるのかをよく見るということが大切です。合意に基づく自由な取引で移転するのではない形で経済価値が移転するという意味で、非経済的な富をとる人は誰なのか、どういう動機に基づいて何をしているのか、手段としては何をしているのか、ということをまずはじっと見る。

小論文ノートを作る50   [小論対策]

「『普通の女の子』として存在したくないあなたへ」村上 龍/マガジンハウス
(p.26)  腐ったものばかりに囲まれていると、本当のものがあっても気付かなくなってしまう、


(p.33)
 悩みなんかない方がいいに決まっている、
 二十代前半で、社会と自分の関係に納得し満足しているのはバカだ、ということだ、
 そういう連中は「社会的な幸福」を思い描く、社会からほめられ、社会からいい子いい子で迎えられるのをよろこぶ、最低の人種だ、
 自分のからだが感じるよろこびより、社会的なランク付け(学歴、家柄、地位)にプライオリティーを設定する最低の人種、僕はそういうクズは相手にしない、僕を許せない時期は辛いが、その果てにしか、素敵な笑顔はないのだ、

(p.78)
 私が実際に会った経験で言うと、少ない人数で、第三世界で、がんばっている日本人ほど、貴重な情報を持っているし、現地の人々に好かれている、
 日本人は群れると、人格が変わる、というか、日本での序列や社会性をそのまま海外に持っていってしまうので、想像力を失くし、摩擦が起きやすくなる、

(p.124)
 正確ではないものは年月と共に古くなる、
 正確さを得るためには、訓練が絶対に必要で、訓練のないものを私は軽蔑します、

(p.139-140)
 平和でヒマだと、本当にムダなことに目がいってしまう、意味の転倒に気付かなくなる、
 例えば出発前に成田でインタビューされて「どうして、悪女に人気があるのか?」と聞かれた、考えてみればすぐにわかることで、悪女なんかに人気があるわけがない、
 人気のある悪女がたまにいるけだ、

 そういう曖昧さがベースになっている場所ではいろいろなことが見えにくくなるので、ストレートに生きるのがとても難しくなってきている、

 特に難しいのが、自分が好きなことは何か、探すことだ、
 好きなことや好きな人を探すのは、この世の中で最も難しいのに、誰もそういうことを言わないから、子供や若い女の子は好きなことは簡単に見つかると思って一生を棒に振ってしまう、

(p.155)
 お互いに依存し、干渉し合う閉鎖的・均一的な共同体は、そこに入って来るものと、そこから出て行こうとするものを本能的に嫌う、

(p.164)
 依存はどうして諸悪の根源だのだろうか、
 アル中のことを、アルコール依存症とかいうし、薬物中毒も依存という言葉を使う、

 他人やモノや薬物や酒に依存することは、それだけで人生を放棄することなのだ、
 主体性は、人間全員にペタッと最初から貼り付いてあるものではない、何かの瞬間に、私達に発生するのだ、主体性が発生するためには、まず依存を失くすことが第一の条件となる、

 そして困ったことに、依存はとても楽でイージーなのだ、
 麻薬中毒者は、ただ麻薬を手に入れるためだけに全人生を使い果たす、
 何も迷う必要はない、イージーだ、

(p.207)
 夢だ、ロマンだと言っている間は、何も始まらないのである、理想的な目標を設定して、一つ一つ壁をクリアしていく、それしかない、

(p.208)
 日本人は、他国や他者や自分の属する共同体の価値観を学んだり真似たりすることにとても熱心で上手にやるが、自分の価値観を他国や他者や共同体にアピールするのが下手で、熱意もない、

(p.211-212)
 人間の常として、切実な情報が入って来ない状況の時、私達はつい説教をしたがる、
 それは自分の苛立ちやフラストレーションを他人に押しつけたり、考えを無理やり聞かせ同意させて自分の自信のなさを解消しようという、依存的な行いなのだ、
 説教好きの人は、寂しい人なのである、

 先輩が持っているものは、せいぜい人間関係を切り抜けていく方法で、つまるところそれは「長い物には巻かれろ」という結論となる、

 雑誌を開けば「自分の信じたことは命を張ってやってみろ」みたいなことを、おじさんやおばさんが恥ずかし気もなく堂々と喋っていたりする、
 説教する人を信じてはいけない、
 説教そのものも信じてはいけない、
 今この国に、生きのびる指針となるような価値観を持っている年上の人間なんかどこにもいない、どう生きればいいかわかっている人なんか誰もいない、

小論文ノートを作る49   [小論対策]

『1987-1991 村上龍全エッセイ』村上 龍/講談社文庫

(p.238-239)
 文化という言葉は、ヨーロッパのためにあるような気がする。
 それでは、文化とはどう定義すればいいのだろう?
 フェラーリがイタリア文化の代表という言い方には、とても説得力があるが、トヨタが日本文化かというと疑問が残ってしまう。
 伝統の問題だろうか?
 それもあるが、それだけではない。

 私個人の意見だが、まず大切なのは、「際立つ」ということだろうと思う。
 際立つ、つまり、自ら、違いを明らかにして、なおかつ、美しいということだ。
 「○○○はあなた方の価値観とは少し違っているかも知れないが、これも美しいのだ」と、自己主張をすることだと思う。
 それも、相手に理解して貰えるコードで。
 しかも、何十年と続けて・・・。

 日本の東北地方に何百年と伝わる何とか踊り、などというのは文化にはなり得ない。
 日本の祭のほとんどは文化ではない。
 それは他者の理解を求めるものではなく、その昔圧制と貧乏に苦しんだ自分たちが勝手に楽しむために始めたものだからだ。

 文化というのは、ある種の働きかけだと思う。
 そして、その働きかけの中心にあるのは、「美」と「快楽」である。
 人間にあって、動物にはないもの、それは理性などではない。
 理性というのは、禁止の認識だから、ムチでぶっ叩けば犬だろうがライオンだろうが豚だろうが、簡単に覚えることができる。

 美意識、これを動物に教えることはできない。
 人間に近いとされるチンパンジーのオリバー君に、ゴッホやセザンヌはわからない。
 快楽もそうだ。
 ポルシェ959に豚を乗せても、豚はただ怯えてピーピー鳴くだけだろう。

(p.275)
 欠如しているのは「意志」だと思う。意志がないとすべてが曖昧になる。私は自分の小説で曖昧さを厳しく攻撃するが、それは曖昧さというのは一番の恐怖であるからだ。その人が何を欲しているのかわからないと、その人のことはわからない。そしてわからないというのは恐ろしいことなのだ。

(p.358)
 オレ達は、頭が良くて、元気があって、そして、不良だ、
 その三つの要素は世間を楽しく渡っていくための必要条件だと思うんだが、これだけ厳しく監理されている社会だと三つとも兼ねそなえるってかなり難しいことになってくる、

(p.363)
 鼎談においては話がかみ合って盛り上がったり、そこに何らかの理解や共通認識が発生することに大した意味はあるまい。自分がどう他人と際立っているかがわかればいいのだ。

(p.384)
 快楽は、科学的な努力と、積極的な意志がなければ、成立しないのだ。

(p.410-411)
 私達は、成功者を、自分達とはエネルギーそのものが違う人、とイメージしたがるものだ。その方が安心できるからである。
 だが、成功者は、挑戦者としての自分を常に鼓舞してきた普通の人なのだ。

(p.432-433)
 無知というのは救いようがありません。
 無知というのは情報がない状況を指すのではなく、情報を欲しがらない、必要としない状況を言うのだと思います。

 例えば、イラクの特攻大作戦の陰であまり目立ちませんでしたが、フジモリ大統領が、ガソリンを三十倍値上げしました。
 わたしは、驚き、思わず椅子から転げ落ちそうになり、近いうちにペルーに行くぞ、と決意していました。
 ペルーで、ガソリンが三十倍になったの知ってる? といろんな人に聞いてみると、みんな知っていて、「国が破産しているんだからそのくらいのこと当然だろう」という反応でした。

 当然だろう・・・私は、自分の中の何を基準にして当然だとするのかどう考えてもわかりません。
 想像力の問題だと思います。
 ガソリンの三十倍の値上げ、というのを当然のことのようにわかってしまった気になるのは、想像力の欠如であり、考え抜くことを放棄した証拠だと思います。

 何かを見せつけられたり、何かをみせつけられた人々の間で生活したりしなければ、考え抜く習慣はつきません。
 考え抜くのは、楽しいことではないからです。
 わたしは、「あしたからガソリン三十倍値上げ」と宣言された人々がどんな顔をしているのか、それだけでも見たいと思います。

小論文ノートを作る48   [小論対策]

『1987-1991 村上龍全エッセイ』村上 龍/講談社文庫
写真とは、どう撮るかではなくて、何を問うか、なのだ。

(p.69)
 快楽を得るためには、科学的な努力をしなくてはいけない。そしてこれは残酷な事実だが、科学的な努力だけが、自分がどの程度の人間かを自分に教えてくれるのである。

(p.80-81)
 英雄の顔は、「意志」と「勝利」によって形成されていくのである。
 意志、それはほどんどが勝利への意志だ。
 勝利は、偶然のうちに転がり込んでくることがある。俗に言うビギナーズ・ラックというものだ。だがそんなものはもちろん続きはしない。

 勝利する、成し遂げる、という意志が生まれ、私達はそのために自分のパワーを総動員する。成功した時、意志と勝利が直結しその磁力が顔に刻まれる。

 敗北は表情を弛緩させる。自決でもしない限りは、私達は敗北を中和させなければならない。まあいいや、これだけがすべてじゃないことだし、そう考えて中和させるのだが、その瞬間に輝きが一つ失われる。

 だが、生きのびるためには中和は必要だ。だが中和の状態が続けばそれはあきらめとなって死ぬまでダメな顔のまま生きていかなくてはならない。

 不思議なのは、「意志」と「勝利」を結ぶ「努力」というファクターが顔に出ないことである。意志と努力だけが前面に出ている顔というのもあるが、それには誰も感動しない。安心するだけだ。

 ああ、むくわれない人はボクの他にも多勢いるのだなと思って安心するわけだ。
 意志と努力の直結が速ければ速いほど、密であればあるほどその人の顔は輝く。
 英雄は苦労をしてはいけないし、努力の跡を残してはならない。
 彼に必要なのは意志の発生から勝利までの恐るべきスピード感なのである。
 そのスピード感が備わっている人間には迷いというものがない。

 なぜなら彼らの中で意志と勝利が常に直結し続けてきたために、「迷い」が消滅するからだ。英雄や天才の顔が私たちを感動させるのは、実はその「迷い」の痕跡がないためなのだ。彼は迷う必要がない。

 迷っている人間は他人にまでも不安にさせる。
 彼はそれだけでメジャーにはなり得ないのである。
 野生動物は決して迷わない。生存が唯一のポリシーである彼において、意志と勝利が、それぞれ本能と生存という言葉に変わる。努力などというものはない。
 だからすべての野生動物は美しい。

(p.212)
写真とは、どう撮るか? ではなくて、何を問うか、なのだ。

(p.220)
 スタイル(生き方)を簡単に変えてしまう人とは、付き合えないものです。
 そういう人のことを打算的と呼ぶのですが、打算的な人間は、言うまでもなく、最も弱い人です。

小論文ノートを作る47   [小論対策]

『最前線』 村上 龍/ラインブックス
 直感という言葉を整理するとどういうことかというと、過去の経験による瞬時の判断なんです。

(p.154)
金子:向こうに住んで一番よかったのは、難しい言い方をすると、30歳すぎてこてんぱんにやられたってことですね。外国に住んだことのある人はみなさんお感じになると思いますけど、オピニオンのないやつは人間扱いされない。敵のない人間は味方もいない、みたいな。

(p.158)
村上:もし日本のシステムが狂っていてそれを何とか立て直そうというなら、それはきっと地道な世界を自分で探すとか、それを誰かに伝えるとか以外にはないと思うんです。ところがその地道さが人気がないんですよね。何か思いつきとか工夫で、価値観や世の中が変わると思われている。

(p.198)
浜野:いまディズニーがすごく熱心に取り組んでいるのは、萩窪とパリとトロントにある自社のアニメーション工房をみんなデジタル化して、インターネットで結ぶことです。
村上:萩窪?北口とかですか(笑)。
浜野:南口かな。映画製作ってのは日数イコール金じゃないですか。1日でも延びればコストがかかるし、企画をパクるようなやつも出てくる。企画が決まったらバーッと短期間で作ったほうがいいわけです。パリと萩窪と本社のトロントの時差が8時間くらいだから、CGで色を塗ったやつを送り合うことで3分の1くらいの時間短縮ができる。

(p.211)
村上:金融や経済にかかわってみて初めて気がついたのですが、日本のあらゆる問題は非常に安易に文化論に流れていく傾向がありますね。「日本民族の特性だからしょうがない」とか「日本は昔からそうだったから」とか、曖昧な見方が非常に多いというか、それしかない。

(p.218)
林:直感という言葉を整理するとどういうことかというと、過去の経験による瞬時の判断なんです。

(p.221)
林:どうでもいい情報は有害ですらある。
林:ソ連が怒り狂って、イギリスにミサイル打ち込むということもありえない。その可能性があったら、不安心理がかきたてられて、1ヶ月後に第三次世界大戦になるんじゃないの、とさらなるドル高になってしまいます。最強の国の通貨であるドルへと集中するわけです。そういうのを利用して、ソ連はアフガン侵攻の前にドルを買いこんで儲けて軍事費を捻出したという話です。

(p.222)
林:決めつけてしまうのではなくて、均整のとれた思考で直感を働かせる、というのが為替の面白いところで、有事のドル買いはマルかバツかというお勉強をしてマーケットに参加してきた人は相場では勝てない。

(p.228)
 うまくリスクをとって利益を得ようとするとき、他人の意見など参考にならない。日本人はおうおうにして誰かの意見を聞きたがるし、多くの人が賛同することをしたがる。これまではそれで十分利益をあげることができたからだ。

 他人と違うことをしたり、考えたりするのは大変なコストがかかる。それなら政府の言うことを聞いていたほうが楽だ、というのがこれまでの日本だったと思う。他人の言うことに耳を貸さず、自分で判断したり、そのための材料を集めたりしようという発想自体がなかった。

 もうこれからはそれではやっていけない、という声はあちこちで聞かれる。ただそうは言われても、これまでしみついた考え方、生き方を急に変えるのはそう簡単なことではない。

 「じゃあどうすればいいんですか」という質問は、たぶん欧米にはないのではないかと思う。そんなことはそれぞれの人間が考えるしかないからだ。こうした質問が繰り返されている限り、考え方は変わらないということだ。

小論文ノートを作る46   [小論対策]

『最前線』 村上 龍/ラインブックス
(p.13)
上原:「友がみな我よりえらく見える日は」という石川啄木の歌なのですが、その後は「花を買い来て妻としたしむ」と続くんです。

(p.17)
上原:私の中に「生きがたいこと」というのが、4つか5つぐらいあるんですよ。一つは暴力にさらされるのが嫌だ、2つ目は体の健康についてで痛みが嫌だ、3つ目は評価されないことが嫌だ、4つ目は人間関係でギスギスするのが嫌だとか、まあいくつかあるんです。その「生きがたいこと」がなくなれば、生きる上でのある必要条件ができるわけです。逆に「生きやすいこと」とは、夢中になれることがあるとか、褒められるとか、チームワークで誰かのために何かをやっていると感じられるとか。それらが十分条件です。

(p.26)
村上:まず自分ひとりで生きていける技術や能力を身につけろというようなことは言っています。共同体の中に迎え入れられなくても生きていけるようにするには特別な技術が必要です。英語しかしゃべれないより、英語とフランス語とスペイン語をしゃべれるほうが絶対に有利というか、自由になれるんですよ。ある価値観やポリシーを確立するより以前に生きていくことが先ですから、とりあえず経済的な基盤を大企業や官公庁に求めないで、奴隷にならなくて済む訓練や勉強は必要なんじゃないかと思います。その中で何かが生まれてくればいいなという思いもあります。

(p.65)
村上:いくら親の側が「人間は外見ではない、中身だ」と言っても、たとえばテレビを見たら中身のない人間が見かけがいいという理由だけでいい生活をしているのがわかる、という情報社会になっている。なんでこんな馬鹿が顔がいいだけで出てるんだ、と日々思わせている。だから整形やダイエットに励んでしまう子供たちのことは理解できるんです、かわいそうだけどね。

(p.138)
村上:僕は作家だから言うわけじゃないですが、人間のイマジネーション、想像力というのを信じているんですよ。悲惨な経験がなければ表現できない、というような言い方をする人がいるけど、そうじゃないと思う。常に危機感を持って、ある状況をイメージできる想像力を鍛えていけば、悲惨な経験に遇わなくても物事を考える力になると思う。

(p.149)
 危機感、あるいはある意味での想像力の源をたどると記憶したものであることが多い。対談の中でも述べたように、たとえば終戦直後の日本には危機感につながる記憶があった。だがその後の日本は日本と世界を完全に分けて考えるようになった。そしてそのことに気づいている人自体が非常に少ない。FM放送でしゃべっているパーソナリティーは「シー・ユー・ネクスト・ウィーク」と英語で挨拶をする。ニューヨークのラッパーみたいな恰好をした渋谷の男はひと言も英語をしゃべれない。そこにあるのは英語の文化の雰囲気のようなものだけで、アメリカ人やイギリス人が見たら笑うだろう。だが本人はアメリカ人やイギリス人が見てるかもしれない、とさえ思わない。日本と世界を分けて考えているからそんなことができる。

小論文ノートを作る45   [小論対策]

『寂しい国の殺人』村上 龍/シングルカット

(p26
 もう国家的な目標はない、だから個人としての目標を設定しないといけない、その目標というのは君の将来を支える仕事のことだ、そういう風にわかりやすく親切にアナウンスしてあげないとわからない人々がいる。子どもたちだ。

(p40)
 それではどうやってそういう余裕のある生活を楽しむ身分になればいいのか、誰も子どもたちに教えない。とにかくいい学校に入れ、いい会社に入れ、言われることは相変わらずそれだけだ。価値が既に認められている集団の中で生きていくこと、それだけを子どもに勧めることは非常に簡単である。

(p42)
 人間が成長していくときにはモデルが必要だ。子どもは思春期を迎えるまで親をモデルにして育つ。親の真似をして育つというわけではない。親の生き方を見る以外に、生きていく方法を学ぶ機会がないということである。親が退屈な生き方をしていると、子どもは人生を退屈なものだと思う。繰り返しになるが、今のほとんどの子どもは、「いい学校に入れ、いい会社に入れ」というアナウンスだけを聞いて育つ。それは単に社会が近代化以後の価値観を持っていないからで、メディアが垂れ流す情報とは矛盾している。いい学校に入り、いい会社に入っているだけで充実した人生を送っている人なんかどこにもいないことを、ありとあらゆるメディアは日々競って情報として子どもたちに押しつけている。

 子どもたちはそのような葛藤の中にいて、別の、あるいは個人的な新しい生き方のモデルを見つけることができない。

(p46)
 何か強烈な事件を契機にして思考を停止する人はいつの時代にもいる。ヒステリックに排除と制裁を叫んでいる人々は、この14歳が怖いのだと思う。この14歳が露わにしてきたことが理解を超えていて、それが怖いのだろう。近代化の途上という「のどかで貧しい時代」を生きてきた人々の想像力には限界があるし、彼らは近代化の労苦を背負った人たちでもあるので、わたしは「排除・制裁派」を批判しない。彼らはその労苦が報われなかったという挫折感によって「世間」と同化してしまった。この国の「世間」は原則よりも、ときには法律よりも強い。わたしはそういう「世間」とはできるだけ関わりを持ちたくない。

(p64)
 親が悪い、教育がなっていない、とは答えない。そういう答えは日本人同士でわめきあうテレビの討論番組では有効だが、外国人に対しては自国の恥になってしまう。あなたの国の家族であなたの国の教育ではないのか、と外国人に言われたら返す言葉がない。

 寂しいからだ、とわたしは答える。そして近代化が終わったという話をする。
「近代化が終わったのに誰もそのことをアナウンスしないし、個人的な価値観の創出も始まっていない、だから誰もが混乱し、目標を失って寂しい人間が増えている、オウムも、女子高生の援助交際も、子どもたちのいじめもこの国の人間たちが抱える寂しさが原因で発生したことだ」

 外国のメディアはすぐにわかってくれる。わかった、ありがとう、と取材テープを止めて、インタビューは終わる。では、これから日本はどうするのか、とは絶対に聞かない。個人的な価値観の創出が自明のこととなっている国のジャーナリストなので、「ではこれから日本はどうするのか」という質問そのものが不毛なものだと知っているのである。

 例えば、フランス人はこれからどう生きるべきか、などとフランス人は決して考えない。今、日本全体のことを考えられる日本人など本当はどこにもいない。「これからの日本をどう変えていけばいいのか」などと言っている人を、わたしは信用しない。そんなたわけたことを言う前にまずお前が変われ、といつも思う。システムを変えることで個人が変わる時代は終わっている。

(p92)
 テキストの基調になったのは「近代化の終焉」ということだった。近代化が終わった後で何がどういう風に変わるのか、わたしはそのことを今も考え続けている。はっきりしているのは、さまざまなレベルでのコミュニケーションが変わらざるを得ないと言うことだろう。集団的・国家的な目標が失われた後では、コミュニケーションにおいてトップダウンが機能しなくなる。基本的に、非常に手間のかかる作業になるし、それができない人々が増え、新しい階級社会が生まれることだろう。インターネットなど通信の進化について行けない人々が生まれるといった単純な意味ではない。

 伝えなくてはいけない情報を正確に伝える技術への依存度が高まると言うことだ。それを実行しない先進社会はあり得ないし、それを怠る人間や社会は必ず「外部」から疎外を受けるようになる。

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